納棺夫日記とおくりびと

Posted by mail.ogu.check on 5月 29 2009 | 雑記

身内の話を書くのはどうかとの思いもあるが、今話題のアカデミー賞をとったおくりびとについて書くに当たり、母の納棺の時の強烈な一件が思い起こされる。
それは、映画でも本木雅弘演じる納棺師が死者に綺麗に化粧をする場面がある。
今、当時の納棺をしてくださった人の顔もどのようにして母の顔に化粧をしたのか手順も思い出さないが,日頃、素顔でいたせいか化粧の施された母の顔はとても死んだ人間とは思えない生々しさで、何か自分の中の母とは別人に見え、化粧を落としてくれるよう頼んだ。

法名が、桜峰院釈尼滋敬。
母が小樽の桜陽高校(昔の庁立女子高等学校)を卒業していることと名前がミネ。
親孝行を何一つとして出来無かったが、5月21日自宅で庭の桜を愛でながら安らかに旅立つ母を見送れたことがゆういつ私にとっての救いと言える。
桜が好きで信心深かった母に対して、お坊さんが西行の「願わくば花の下にて春死なん」を重ねたのか桜の法名くださった。

近くの川辺に咲いている満開の千島桜千島桜
我が家の近くに咲いている満開の千島桜

さてアカデミー賞受賞作おくりびと。
この作品の原点になっているのが納棺夫日記。
観てから読むか、読んでから観るか。
私は読んでから観た。
映画館で映画を観るのは数十年ぶりで観客の殆んどが、私と同世代かそれ以上でおむかえが明日はわが身といった人達ばかり。
笑いながら、泣きながら、鼻水と涙がいしょになってどうにも止まらない。

原作は作家青木新門の体験記で、作家の死生観、宗教観、宇宙観、人生哲学、そして現代医療の欺瞞性など深い内容と格調の高い作品で、最近読んだ文学作品とは次元を異にするように思う。

映像で作家の深い思想を表現するのは難しくもありまた重く暗く哲学的でとてもアカデミー賞とはいかなっかたと思う。

やはり映画の素晴らしさは小山薫堂のシナリオと監督滝田洋二郎の演出に負うところ大ではないかと思う。

最初に訪れた面接の場面での求人広告の新聞に「旅のお手伝い」を赤ペンで誤植だなあと言って「安らかな旅立ち」と加筆するところは、山崎努の演技の確かさもさることながら演出のうまさに畏れ入った。
本木雅弘演じる主人公の職業も原作者が破産した詩人に対して、リストラにあったチェロ奏者とどこか夢追い人のような設定にしているところは作家の精神構造に敬意を表しているようにも感じられる。

そもそも、本木雅弘がこの本を読んで映画化したいと思ったことに端を発しているとの話で俳優にこれほど奥の深い思索をする人物がいるのかと少し意外な気がした。

映画は百聞は一見に如かずで、笑いの中に涙、涙の中に笑いありで、しかも観ている観客が明日は当事者だけに何とも私的には滑稽なのだ。
一緒に観た友人が「ジジ、ババアが観るのでなく孫にみせるべきで文科省推薦映画にすべきだ」との感想を言ったのは心中穏やかでなかったのかもしれない。

納棺夫日記は私ごときが論評をするのはおこがましいが最近読んだ本の中で、これほど内容が仏教の経典をよすがとして、作家自身の美しい言葉で書かれている作品は無いように思う。。詩人の感性と求道者の魂で綴ったノンフィクションの哲学書といえるのではないか。

本の中で作者の叔母が餓死状態のところを助け出され、延命治療を施される場面がある。作者は、一人暮らしをしていた高齢の叔母は病室で死ぬより自宅で自然に植物が枯れるような死を望み、断食をしたのではないかとの思いがよぎる。

現代、医療機関は勿論、社会に於いても「生きること、生かすこと」を絶対的善としているが果たしてそうかと言う気が私の中にある。
作者も現場で、今わの際の人間や死者の声や叫びが聴えるのではないかと思う。

私は、堪え性のない人間なので病気になって、痛い、辛い、きつい、苦しい思いをしながら生きたいとは思は無い。

不遜かもしれないが、身内のいない私などは「健康で長生き」よりも「健康で早死が一番」。介護保険の世話にならないうちにあの世に送ってもらいたいと願っている。

尊厳死協会に加入して延命治療をしないよう今から意志表示をしているが、可能なら自分の命に定年制をもうけたいくらいだ。
その歳になったら翌朝目が覚めないと言うのが理想だ。
ただ幾つに決めるかが難しい。
あと一年、もう一年、結構延ばしのばしで周りの者から迷惑がられるのがオチかもしれない。

美しい死に方など望めるものでないが、死期は察知できるそうなので、せめて断食して胃の中を空にしようと思う。
「どこに、どこに、最後の晩餐でお代わり、お代わりでお櫃を空にするサ」ですって。

5月29日 ハスカップ 三ツ野由希子